みどころ紹介

早川町は昭和31年に、6つの村が合併して誕生しました。町制施行以来60年が過ぎましたが、今なお旧村ごとに特徴が見てとれ、その豊かな個性が早川町の魅力につながっています。ここでは、旧村(地区)ごとの特徴や見どころを紹介していきます。

本建地区

町内でも特に身延山・七面山信仰と関わりの深い地域です。

 赤沢宿は、身延山と七面山を結ぶ往還の途中に位置する宿場町で、七面山への参詣客を迎え入れる宿場として栄えました。江戸後期から明治期に建てられた旅館が数多く残り、平成5年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。2月、3月には集落内に群生する福寿草・節分草、4月にはしだれ桜、6月には紫陽花など、四季折々の花が楽しめるのも魅力です。

 七面山表参道登山口の羽衣集落には、徳川家康公の側室お萬の方が、七面山の女人禁制を解くために身を清めた「白糸の滝」があります。その上流には「雄滝」もあり、今でも滝に打たれる信者さんの姿が見られます。また、参詣客を向かい入れる宿坊や旅館も建ち並び、登山口から10分ほど登った神力坊には、お萬の方が七面山参詣の際にお使いになられたとされるお駕籠の棒が残されています。

 七面山北参道登山口がある角瀬集落は、早川沿いの車道開通後に賑わうようになった集落で、七面山登山の新しい玄関口であるとともに、現在では町のインフォメーションセンターが設置されるなど早川町観光の拠点にもなっています。

 

五箇地区

町に入り、早川左岸に見える村々が五箇地区です。早川の流れとそこにかかる橋、そして対岸にある集落とその裏の山々が一体となり、早川町の中でも農村的な風景を見ることができます。五箇地区では、昭和の後半まで養蚕が盛んに行われていました。それらを象徴する畑や民家の兜作りの大きい屋根、そして石積みや用水路跡等、農業に関する文化的資源が多数残ります。現在では、町の特産品でもある山ぶどうワイン「恋紫」の原料となるぶどうが生産され、ぶどう畑を多数見ることができます。

 また、集落と集落の間には、桜並木や紅葉、中之島から播磨沢周辺の山桜の群生など見どころが集まり、その美しさを県道から見ることができます。また塩之上、笹走など山の上の集落や富士見山林道など、標高の高い場所は、南アルプス、富士山や七面山などの隠れた眺望ポイントにもなっています。

言い伝え:北の池と七面大明神 〜住民の誇り、七面天女を祀るお宮〜

 北の池(明神池)七面堂は、榑坪の集落から歩いて30分ほど坂道を登ったところにあります。北の池は、七面山の七池の一つで、池の周りには水神様が祀られ、四季を通して美しい自然を楽しむことができます。また何日も雨が降らなくて困ると雨乞いを行い、池をきれいにすると、必ず雨が降ってくると言われています。七面堂には榑坪の住民の守り神様である七面天女が祀られており、その立像は全国に三体しかなく大変珍しいと言われています。一本の木から三体の女神様が作られ、その内の一体が250年程前にここに安置されました。昭和20年頃までは池の周りに水田があり、穫れた米でついた餅を奉納し、餅投げなどをして集落の人々の家内安全、無病息災を祈りました。現在も、毎年10月19日には集落の人たちが餅や枝豆、漬け物、お菓子などを持ち寄り、集落住民や県内外から大勢の人々が参加して、盛大に「七面大明神大祭」が行われています。

 

硯島地区

2,000m級の山々に囲まれ、四季折々の山の風景を間近で感じることができます。布引山、笊ヶ岳、山伏などは登山愛好家にも親しまれる山々です。雨畑渓谷の水が注ぎ込む雨畑湖では、湖面が鏡となり新緑や紅葉、また月などを映し出し、時とともに変化する自然が楽しめます。

 硯島地区の斜面地には茶畑が広がり、5月には隣近所が協力してお茶を摘む、いわゆる「ゆうげぇし」の精神に基づく光景が見られます。また硯島地区はその名の通り、硯の産地としての性格も持っています。中国の端渓にも匹敵する硯として、昔から多くの文人・墨客に愛された「雨畑硯」の生産地として名を馳せてきました。硯匠庵では、その歴史や特徴を学び、製造工程を見学・体験できるようになっています。

言い伝え:金が眠る見神の滝

 秋になると見事な紅葉で彩られる見神の滝。落差42mのこの滝を見上げると、滝壺が2段になっているのがわかります。上の滝壺には金があるといわれ、何人かの若者がこれを取って長者になろうと試みましたが、断崖絶壁のためすべて失敗したという伝説が残っています。滝の右側には、岩をくりぬいただけの祠があり、右手に剣と左手に数珠を持った不動明王の石像が祀られ、地元では不動滝とも言われています。

 

都川地区

早川舟運の終着点「川の都」として栄えたことから都川と名付けられました。町の中央部に位置し、町の一大イベントである山菜祭りの会場となる早川中学校や、町内唯一の信号や、公的機関も多数集まる地域です。

 各集落、言われや特徴が色濃く残っており、草塩集落のケヤキや桜の並木、京ヶ島集落の縛り地蔵と夫婦杉、保集落のセギなど早川の暮らしを表す文化的資源が多数あります。

 温泉、管理釣り場、オートキャンプ場、ギャラリー、カフェ、ジビエレストランなど、比較的若い層や子ども連れのお客様に喜ばれる観光資源が集まる地域です。

言い伝え:しばり地蔵 〜やさしく縛れば、願いが叶う〜

曹洞宗神王山常昌院の門前には、集落の繁栄を願って御安置された「しばり地蔵」があります。細い縄でやさしく縛れば願いが叶うとされ、叶ったらお礼に縄を解きに来るのが慣しです。

言い伝え:夫婦杉 〜仲良く寄添う〜

八幡日吉神社の境内にある樹齢800年の夫婦杉は、山梨県の天然記念物に指定されています。太さ約7m、高さ約40mという、巨木2本が寄添うように立っているのは珍しく、モモンガが生息しており、運が良ければ出会えます。

 

三里地区

昭和の中頃まで、林業や電源開発、鉱山開発で栄えた地域です。かつて新倉銀座と呼ばれるほど賑わった新倉集落には、昔の旅館や料亭等の名残が見られます。茂倉、新倉、大原野集落などで見られる急傾斜地の密集した町並みと、中洲集落、塩島集落間で見られる田園風景も特徴的です。特に新倉集落から山道を5kmほど上ったところにある茂倉集落は、日本のマチュピチュとも言われ、獅子舞、雨乞いなど伝統的な文化と助け合いの精神が色濃く残った地域です。

言い伝え:味噌の釜屋 〜共同で味噌豆を蒸した釜〜

早川集落の一番上地点(山に神)の脇に、味噌豆を蒸すための作業施設、釜屋がありました。今でも大きな釜が残されています。冬になると、この釜で豆を蒸しました。各家庭で一昼夜以上水に浸した大豆を、米俵、カマス、麻袋等に入れ、当日早朝にこの釜屋へ背負い込みました。水を張った鉄の大釜には丈夫な細長い棒が数本連結されており、持ち込んだ俵やカマス等をその上へ積み上げました。そして直径1.5m、高さ2mにも及ぶ巨大な吊鐘型の桶をかぶせて蒸す仕組みです。一昼夜かけ、寝ずの番で火を管理し、翌朝、各自の家へ持ち帰り味噌作りをしたものです。明治時代から始められたもので、集落内の全ての家の作業を終えるのには毎年一週間位の日数を要しました。生活様式や食生活の変化により、昭和50年代に入り、共同作業としての冬の風物詩は終わりとなりました。

 

西山地区

早川町最北の地区です。早川を上流に遡るにつれ、大きな岩が増え、川幅も狭くなります。この辺りは「早川渓谷」と呼ばれ、町内随一の風光明媚なスポットとして観光客にも親しまれています。ミツバツツジの早春と木々が萌え始める新緑、秋深まった頃の紅葉などの渓谷美が楽しめます。

 かねてより湯治場として賑わった西山地区は、1,300年以上の歴史を誇ります。今でも源泉掛け流しの温泉が5ヶ所あり、大勢の温泉客でにぎわいます。また、見返橋付近にあるオベリスク、明治6年に建てられた蓬莱館の木造棟、湯川沿いにあるかつての宿や温泉の跡など、その歴史を示す文化的資源から、歴史的な奥行きを感じることができます。

 また、最北の奈良田集落には、孝謙天皇にちなんだ七不思議伝説、焼畑文化や独特の民俗風習が数多く残り、見どころの一つとなっています。

言い伝え:奈良田の七不思議 〜奈良王様にまつわる伝説〜

奈良田は昭和初期まで他の地域から隔絶した村で、民俗学の宝庫といわれました。伝説によれば、奈良田は、遠く天平の昔、奈良の都からやって来た奈良王様が8年間遷居され、「ここも奈良だ」と申されたという古い由緒を伝えています。奈良王様というのは、第46代の女帝孝謙天皇だといわれています。情け深い奈良王様は、8年のうちに多くの善政で村人をお救いになられ、その数々が七不思議となっています。

一、御符水

奈良田の里の敷地内、奈良王神社のお手水としても使われているのが御符水です。奈良王様がお掘りになった用地で、どんな旱魃や豪雨でも増減なく、飲むと諸病に効能があるとされています。

二、塩の池

塩を得ることに不便を感じた奈良王様は、八幡神社に祈願されたところ、お手洗い池から塩水が湧くようになったものです。ダム工事によって埋没してしまいました。

三、洗濯池

厳寒時の洗濯に苦労されていた奈良王様は、八幡神社に祈願して温かい泉を掘られ、里人の苦労を救われました。池は奈良田湖に沈んでしまいました。

四、檳榔子染池

奈良王様がお衣をお染めになった池で、村人はタホ(藤の繊維で編んだ布)を染めていました。洗濯池と同じく、池は湖底に沈んでしまいました。

五、二羽烏

奈良王様がご遷居中、烏が多く里人を苦しめました。奈良王様は、畑の作物を食べてはいけないという言いつけを守った二羽だけを奈良田に住むことをお許しになり、それから奈良田の烏は二羽だけになりました。

六、片葉の葦

奈良王様が都へお帰りになられる時に、村人とともに葦も後を慕って、皆、一様に北の方を向いて片葉になりました。塩見公園付近の葦は今でも片葉です。

七、七段

移転する前の集落は、奈良王様がお住まいになった王平から、早川の河原まで七段になっていました。奈良の都の七条にならったものだといわれています。